LOGIN「お前の『浮気相手』だ」
父の一言で、控室の空気が凍りついた。 心なしか、父の声はいつもより苛立って聞こえた。何かの予定が、直前で狂ってしまったような——そんな焦り方。 ——何、その微妙な苛立ち方。 ——待って。用意周到すぎない? 前世でもこの茶番には付き合わされた。けど「本物の負傷者」を連れてくるとは聞いてない。演出、盛りすぎである。 「有希。この男とホテルに泊まったことにするから。式でそう証言しろ」 ——さらっと恐ろしいこと言うな、この人。 桜が横で、これ見よがしに肩を震わせる。 「お姉ちゃん……本当に、こんな人と……?」 震える声。潤む瞳。完璧な「哀れな妹」フォーム。 ——目、笑ってるよ。バレてるよ。 けれど私の意識は、もう桜にも父にも向いていなかった。 視線の先。全身傷だらけの男。 ボロボロの服。腕から滲む血。 ——なのに、目だけが妙に静かで、鋭い。 嘘でしょ。 ——見覚えある。いや、見覚えなんてレベルじゃない。 前世、私が家を追い出されたあとに世間を騒がせた男。 日露の血を引く巨大財閥の後継者。 財界で「氷狼」と恐れられた、あの男。 巧。 前世の彼は、この時期に政敵の罠にかかって重傷を負い、そのまま消息を絶った——はずだった。 そして——うちの養父が、その一件に何らかの形で関わっているらしい、という話を、私は風の噂で聞いたことがある。 詳しい経緯までは、知らない。誰の指示で、何が行われたのかも。 今、目の前にいるこの男は—— まだ何も知らない。まだ、誰にも助けられていない。 ——今なら、間に合う。 心臓が、跳ねた。 これは罠じゃない。 チャンスだ。 「有希? 聞いてるの? さっさとこの男と——」 父の声を遮って、私は一歩前に出る。 そして傷だらけの男の前に膝をつき、そっと手を差し出した。 「私と一緒に来る?」 控室が、しん、と静まり返る。 父も母も、桜さえも、ぽかんとこちらを見ていた。 ——そんな顔しないでよ。用意したのそっちでしょ。 男は、私を見上げた。 一瞬——ほんの一瞬だけ。 その瞳の奥に、面白がるような光が過った。 ——え。今の。 だが男はすぐにそれを隠し、怯えたように視線を揺らす。 「……ここ、どこ……? 俺……」 震える声。怯えた瞳。完璧な「記憶喪失の哀れな男」フォーム。 ——嘘。今の一瞬の目、絶対に演技じゃない。 ——ということは、この人も。 何か、隠してる。 ……面白い。 私は口角が上がりそうになるのを堪えながら、差し出した手にもう少しだけ力を込めた。 「大丈夫。私が守るから」 沈黙。 一秒、二秒—— 男の指が、私の手を、そっと握り返した。 冷たい指先。だけど、思ったより力強い。 ——その一瞬。 男の視線が、私の肩越しに、父の顔をちらりと捉えたのを、私は見た気がした。 それが単なる怯えなのか、それとも別の何かなのか——判断する間もなく、男はすぐに視線を私に戻した。 ——契約成立。 私は男の手を引いて立たせると、父、母、桜の順に視線を向けた。 「お父さん、お母さん。今までお世話になりました」 そして、婚約者だったはずの宏一を見ずに、彼が用意した指輪を、桜の目の前にそっと置く。 「桜。指輪も、宏一も、全部あげる」 「有希……」 桜の声が、震えた。今度は演技かどうか、私にも分からないくらいに。 ——さすがに予想外だったか。 私は式場のドアへ向かって歩き出す。そして、最後に一度だけ振り返った。 「私は、この人と結婚します」 ——爆発した。 「有希! 何を考えてるの!」 「待て! お前、正気か!?」 怒号が飛び交う中、私は傷だらけの男の手を引いたまま、誰も正体を知らない「婚約者」を連れて、結婚式場をあとにした。 ——さて。 前世では手に入らなかった「駒」が、一つ手に入った。 隣を見ると、記憶喪失のふりをした男が、涼しい顔でこちらを見ている。 ——ねえ、あなた。本当は、どこまで演技? 聞きたい気持ちをぐっと飲み込んで、私は繋いだ手を、もう一度強く握り直した。 式場を出た瞬間。 男が、小さく呟いた。 「——面白い女」 ——今、記憶喪失の人が言う台詞じゃなくない? 思わず立ち止まり、隣を見上げる。 けれど男は、何事もなかったように、また怯えた顔に戻っていた。 ——気のせい? いや、絶対気のせいじゃない。 もやもやしながらタクシーを拾おうとした、そのとき。 ポケットの中で、彼のスマートフォンが震えた。 画面が一瞬、光る。 ——通知、見えた。 差出人の名前は、日本語ではなかった。 キリル文字。 ——記憶喪失の人が、ロシア語の連絡先を、しかも登録名『Босс(ボス)』で持ってる時点で、もう色々おかしくない? 私が思わず二度見した瞬間、男の手が素早く伸びて、画面を隠した。 「……誰から、とか……分からない……」 「へえ」 私は、にっこり笑った。 ——嘘つきな記憶喪失さん。 今夜から、あなたのこと、じっくり観察させてもらうから。「……誰からだ」 さっきまでの、からかうような余裕は、もうどこにもなかった。 ——な、なにその圧。「W。証拠を送ってくれた人。前にも話したでしょ」「……会うのか」「まだ決めてない。けど」 私はスマートフォンをテーブルに置いた。「この人が誰か、知っておく必要はあると思う」 巧は、しばらく黙って画面を見つめていた。 ——なんか、思ったより深刻な顔してるんだけど。記憶喪失の人が、そんな顔する?「……そうだな」 やがて、巧はいつも通りの、少し掴みにくい笑みに戻った。「なら、俺も一緒に行く」「は? なんで」「妻の警護は、旦那の仕事だろ」 ——さらっと「旦那」って言うのやめて。 私はまだ慣れない単語に、内心だけで動揺しながら、話をそらすことにした。「……とりあえず、今日はもう寝る」「そうだな」 素直に頷いた巧が、当たり前のように、私が敷いた一枚しかない布団の隅に体を横たえた。 ——え。「な、なんで、そこ寝てるの」「布団、ここしかないだろ」「あなたは床でしょ! いつもそうしてたじゃない!」「もう夫婦だろう?」 ——うわ、出た。「夫婦だろう?」理論。 さらりと言われて、反論の言葉が一瞬詰まる。「夫婦だからって、床で寝る理由がなくなるわけじゃ——」「じゃあ、俺が床で寝る意味って何だ?」「そ、それは……」「有希が気を遣ってるだけで、俺は別に構わない。それなら、一緒に寝た方が合理的だと思うけど」 —&md
——長い。 キスって、こんなに長くできるものだっけ。 頭の芯がぼうっとして、そんなどうでもいい感想しか浮かんでこない。 ようやく唇が離れた瞬間、私は反射的に彼の胸を押した。「ちょ、ちょっと待って」「何を?」「何をじゃない! さっきの、通知!」 我に返った私は、水滴を滴らせる巧の顔を、じっと見上げた。「あなたのスマホに、誰から連絡来たの?」 巧は、一瞬だけ目を丸くしたあと——ふ、と小さく笑った。「それが気になって、キスの途中も気が散ってたのか」「うるさい黙って。答えて」 私が本気で睨むと、巧は仕方なさそうに肩をすくめ、洗面台の上のスマートフォンを手に取った。「ほら」 差し出された画面を、私は思わず覗き込む。 ——な、なにこの信頼感。普通、見せてくれなくない? 画面に表示されていたのは、通知一覧。【真琴:今日の飯、何食べた?】【真琴:返信遅すぎ】【真琴:無視するなら押しかけるぞ】 ——え。「……真琴って、誰?」「学生時代からの、唯一の友人」 ——それだけ? 拍子抜けした私は、画面を上から下まで、もう一度確認する。 キリル文字も、「Босс(ボス)」という登録名も、どこにも見当たらない。 ——気のせいだった、のかな。あの日見た通知は。 もやもやとした違和感は残るものの、少なくとも今この瞬間の通知には、Wに繋がるようなものは、何もなかった。「……ふうん。ただの友達か」 安堵と、ちょっとした拍子抜けが混ざった声が出る。「そう。ただの友達」 巧は画面をポケットにしまいながら、こちらをまっ
「公開」ボタンを押した瞬間、世界が変わったわけじゃない。 ——けど、私の中では、確実に何かが動き出した。 私が公開したのは、自分で作曲した楽曲のデモ音源だった。 高校時代から、私はネット上で「Yuki」として活動してきた。 正体不明。顔出しなし。それでも「令和の歌姫」と呼ばれるほど、話題になっていた。 ——前世では、この曲を桜に盗まれた。 私の評判が地に落ち、家から追い出された隙に、桜はこの曲を自分名義で発表した。 そうして手に入れたのが、「天才美少女音楽プロデューサー」という肩書き。 ——ふざけるな、と思う。 しかも三日後には、業界の著名人が集う晩餐会が控えている。世界的音楽家・東堂凜まで出席する、あの場所。 前世の桜は、そこでこの曲を披露し、一躍脚光を浴びた。 ——だから、今回は先に行く。 しかも今回は、Yuki名義じゃない。 自分の実名で。 これで、この曲の本当の作者が誰なのか、誰にも否定できない形で刻まれる。 投稿を終え、スマートフォンを置いた、その直後。 ——ピロン。 メール受信の通知音。 見慣れないアドレスから、一通のメールが届いていた。 嫌な予感がしながらも、開く。 添付されていたのは——養父が会社を使って行っていた資金洗浄の証拠。 さらに、桜と宏一が旅館へ出入りする監視映像。 ——これ、私が自分じゃ絶対に手に入れられなかったやつだ。 差出人の名前を確認する。「W」 ——W。 その二文字を見た瞬間、前世の記憶が、頭の奥でカチリと音を立てた。 前世、私が孤立して、世間から袋叩きにされていたあの時。 たった一人、私を庇い、
宏一の後ろ姿が、人混みの中に消えていく。 ——それでも、私はまだ、巧の腕の中から動けていなかった。「……有希?」 耳元で名前を呼ばれて、やっと我に返る。「な、なんでもない。ちょっと、びっくりしただけ」 慌てて一歩距離を取ったけれど、まだ心臓はうるさいままだった。 ——絶対、今の顔、赤くなってる。 巧は何も言わず、ただ愉快そうに私を見下ろしている。 ——その顔、やめて。見透かされてる気がするから。 そう思った、次の瞬間。 離れていったはずの宏一が、数メートル先で足を止め、振り返った。「——有希。一つ、忘れてた」 苛立ちを隠しきれない声。「その男、いつまで囲うつもりだ? 記憶喪失の行き倒れなんて、金の切れ目が縁の切れ目だ。すぐに愛想尽かすことになるぞ」 ——最後まで、嫌味を言わずにいられないんだ、この人。 呆れて言葉も出ない私の横で、巧が、静かに一歩前へ出た。「金の切れ目、ね」 低く、けれど妙に落ち着いた声だった。「なら、確認してくれるか」 巧は、懐から一枚のカードを取り出し、私にそっと差し出した。 漆黒のカード。刻印以外、何もない、ただの黒い板。 ——な、なにこれ。 意味は分からないけれど、受け取らない選択肢はなかった。 私はそのカードを受け取ると、そのまま宏一の頬に、軽く押し当てる。「今の私に、あなたじゃ手が届かないの」 宏一の顔が、カードを見た瞬間、凍りついた。「これ……まさか……」 ——なんか、めちゃくちゃ驚いてるけど。 世界にわずか五枚しか存在せず、限られた名家しか
「これ、俺も一緒に潰していいか?」 巧の声が、静かに耳に届いた。 ——今、記憶喪失の人が言う台詞じゃないよね、それ。 けれど、そんなツッコミすら、うまく声にならなかった。 数千件の罵倒コメントを前に、指先が震えている。「……巧」「大丈夫。俺がついてる」 肩に置かれた手のひらの温度が、やけにはっきり伝わってくる。 ——おかしいな。前世の私なら、とっくに心が折れてる場面なのに。 震えていた指が、少しずつ、力を取り戻していく。「……ありがとう。でも」 私は顔を上げた。「これは、私がやる」 巧が、少しだけ目を見開いた。「一人でか?」「一人でいい。——ううん」 言い直す。「一人がいい。この人たちに、思い知らせるのは、私の役目だから」 しばらく私を見つめたあと、巧はふっと小さく笑った。「……そういうところ、嫌いじゃない」 ——なにその言い方。記憶喪失設定、どこ行った。 けれど今は、それを追及している場合じゃない。 私はスマートフォンを握り直し、司法書士の嘉納さんに連絡を入れた。「嘉納さん。世間対応は私がやります。相続手続きは、そのまま進めてください」 通話を切ったあと、新しいアカウントを作成する。 アカウント名——「越前有希」。本名。顔出しなし。けれど、逃げも隠れもしない宣言。 投稿ボタンを、迷いなく押した。【三日後、私の潔白を証明する証拠を、すべて公開します】 続けて、もう一文。【養父母、橘家、そして桜へ】【逃げも隠れもしません。受けて立ちます】 ——宣戦布告
——一方その頃。 結婚式場では、ウェディングドレス姿の桜が、しれっと祭壇の前に立っていた。「あの、花嫁……有希さんじゃない、よね?」「え、じゃあ誰と結婚するの、恒一さん……」 ざわつく参列者たち。 養父は青筋を立てながら、「有希のやつ、わざと桜に恥をかかせたな」と歯ぎしりしていたらしいけれど—— 残念。そんな高尚な計算はしていない。 ただ、私は必要なものを取りに行っただけだ。 ……というわけで、私は今、我が家(8平米)のキッチンに立っている。「はい、できた」「……これ、俺の……?」「あなた以外に誰がいるの」 湯気の立つ味噌汁と、卵焼き。豪華ではないけれど、心を込めた朝ごはん。 巧は、それをじっと見つめたあと、そっと箸をつけた。「……美味しい」「でしょ?」 ——素朴な感想だけど、なんか妙に嬉しい。 食事をしながら、私はふと、罪悪感めいたものを覚えた。 ——この人を、復讐の道具として利用してる自覚はある。 だったら、せめて。「巧。私、貯金あるから」「……え?」「これから、私があなたを養う」 きっぱりと言い切って、私はテーブルの下から一枚の紙を取り出した。 婚姻届。「一緒にいてくれるなら、ちゃんと責任持つ。だから——」「……8平米の部屋、で……?」「悪い?」 巧は、しばらく黙って私を見つめていた。 ——あ、これは断られるパターンかもしれない。 そう思った矢先。「……くくっ」 小さく、彼が笑った。「な、何よ」「いや……可愛いなと思って」 ——え。今、記憶喪失の人が言う台詞じゃなくない? 動揺する私をよそに、巧はペンを手に取り——けれど、すぐには紙に触れなかった。「サインする前に」「な、何」「前金、欲しいんだけど」「前金って……お金なら——」「お金じゃない」 巧の指先が、そっと私の顎に触れた。「キス、してくれないか」 ——は???? 頭の中で盛大にハレーションが起きる。 え、この人、記憶喪失って設定どこいった?「べ、別にそんなの——」「してくれないなら、サインしない」 にこり、と笑う顔が、やけに自信満々だった。 ——ずるい。この顔、絶対ずるい。 しばらく睨み合ったあと、私は諦めて彼の頬に、ちょん、とキスを落とした。 顔が熱い。心臓がうるさい。 巧は一瞬だけ驚いたような







