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第二話 私と一緒に来る?

last update publish date: 2026-10-13 16:48:26

「お前の『浮気相手』だ」

 父の一言で、控室の空気が凍りついた。

 心なしか、父の声はいつもより苛立って聞こえた。何かの予定が、直前で狂ってしまったような——そんな焦り方。

 ——何、その微妙な苛立ち方。

 ——待って。用意周到すぎない?

 前世でもこの茶番には付き合わされた。けど「本物の負傷者」を連れてくるとは聞いてない。演出、盛りすぎである。

「有希。この男とホテルに泊まったことにするから。式でそう証言しろ」

 ——さらっと恐ろしいこと言うな、この人。

 桜が横で、これ見よがしに肩を震わせる。

「お姉ちゃん……本当に、こんな人と……?」

 震える声。潤む瞳。完璧な「哀れな妹」フォーム。

 ——目、笑ってるよ。バレてるよ。

 けれど私の意識は、もう桜にも父にも向いていなかった。

 視線の先。全身傷だらけの男。

 ボロボロの服。腕から滲む血。

 ——なのに、目だけが妙に静かで、鋭い。

 嘘でしょ。

 ——見覚えある。いや、見覚えなんてレベルじゃない。

 前世、私が家を追い出されたあとに世間を騒がせた男。

 日露の血を引く巨大財閥の後継者。

 財界で「氷狼」と恐れられた、あの男。

 巧。

 前世の彼は、この時期に政敵の罠にかかって重傷を負い、そのまま消息を絶った——はずだった。

 そして——うちの養父が、その一件に何らかの形で関わっているらしい、という話を、私は風の噂で聞いたことがある。

 詳しい経緯までは、知らない。誰の指示で、何が行われたのかも。

 今、目の前にいるこの男は——

 まだ何も知らない。まだ、誰にも助けられていない。

 ——今なら、間に合う。

 心臓が、跳ねた。

 これは罠じゃない。

 チャンスだ。

「有希? 聞いてるの? さっさとこの男と——」

 父の声を遮って、私は一歩前に出る。

 そして傷だらけの男の前に膝をつき、そっと手を差し出した。

「私と一緒に来る?」

 控室が、しん、と静まり返る。

 父も母も、桜さえも、ぽかんとこちらを見ていた。

 ——そんな顔しないでよ。用意したのそっちでしょ。

 男は、私を見上げた。

 一瞬——ほんの一瞬だけ。

 その瞳の奥に、面白がるような光が過った。

 ——え。今の。

 だが男はすぐにそれを隠し、怯えたように視線を揺らす。

「……ここ、どこ……? 俺……」

 震える声。怯えた瞳。完璧な「記憶喪失の哀れな男」フォーム。

 ——嘘。今の一瞬の目、絶対に演技じゃない。

 ——ということは、この人も。

 何か、隠してる。

 ……面白い。

 私は口角が上がりそうになるのを堪えながら、差し出した手にもう少しだけ力を込めた。

「大丈夫。私が守るから」

 沈黙。

 一秒、二秒——

 男の指が、私の手を、そっと握り返した。

 冷たい指先。だけど、思ったより力強い。

 ——その一瞬。

 男の視線が、私の肩越しに、父の顔をちらりと捉えたのを、私は見た気がした。

 それが単なる怯えなのか、それとも別の何かなのか——判断する間もなく、男はすぐに視線を私に戻した。

 ——契約成立。

 私は男の手を引いて立たせると、父、母、桜の順に視線を向けた。

「お父さん、お母さん。今までお世話になりました」

 そして、婚約者だったはずの宏一を見ずに、彼が用意した指輪を、桜の目の前にそっと置く。

「桜。指輪も、宏一も、全部あげる」

「有希……」

 桜の声が、震えた。今度は演技かどうか、私にも分からないくらいに。

 ——さすがに予想外だったか。

 私は式場のドアへ向かって歩き出す。そして、最後に一度だけ振り返った。

「私は、この人と結婚します」

 ——爆発した。

「有希! 何を考えてるの!」

「待て! お前、正気か!?」

 怒号が飛び交う中、私は傷だらけの男の手を引いたまま、誰も正体を知らない「婚約者」を連れて、結婚式場をあとにした。

 ——さて。

 前世では手に入らなかった「駒」が、一つ手に入った。

 隣を見ると、記憶喪失のふりをした男が、涼しい顔でこちらを見ている。

 ——ねえ、あなた。本当は、どこまで演技?

 聞きたい気持ちをぐっと飲み込んで、私は繋いだ手を、もう一度強く握り直した。

 式場を出た瞬間。

 男が、小さく呟いた。

「——面白い女」

 ——今、記憶喪失の人が言う台詞じゃなくない?

 思わず立ち止まり、隣を見上げる。

 けれど男は、何事もなかったように、また怯えた顔に戻っていた。

 ——気のせい? いや、絶対気のせいじゃない。

 もやもやしながらタクシーを拾おうとした、そのとき。

 ポケットの中で、彼のスマートフォンが震えた。

 画面が一瞬、光る。

 ——通知、見えた。

 差出人の名前は、日本語ではなかった。

 キリル文字。

 ——記憶喪失の人が、ロシア語の連絡先を、しかも登録名『Босс(ボス)』で持ってる時点で、もう色々おかしくない?

 私が思わず二度見した瞬間、男の手が素早く伸びて、画面を隠した。

「……誰から、とか……分からない……」

「へえ」

 私は、にっこり笑った。

 ——嘘つきな記憶喪失さん。

 今夜から、あなたのこと、じっくり観察させてもらうから。

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  • 「浮気女」にされた私が拾った「貧乏男」は、過保護な億万長者でした ~私を売った家族よ、跪いて許しを乞うても手遅れです~   第四話 前金は、キス一つ

     ——一方その頃。 結婚式場では、ウェディングドレス姿の桜が、しれっと祭壇の前に立っていた。「あの、花嫁……有希さんじゃない、よね?」「え、じゃあ誰と結婚するの、恒一さん……」 ざわつく参列者たち。 養父は青筋を立てながら、「有希のやつ、わざと桜に恥をかかせたな」と歯ぎしりしていたらしいけれど—— 残念。そんな高尚な計算はしていない。 ただ、私は必要なものを取りに行っただけだ。 ……というわけで、私は今、我が家(8平米)のキッチンに立っている。「はい、できた」「……これ、俺の……?」「あなた以外に誰がいるの」 湯気の立つ味噌汁と、卵焼き。豪華ではないけれど、心を込めた朝ごはん。 巧は、それをじっと見つめたあと、そっと箸をつけた。「……美味しい」「でしょ?」 ——素朴な感想だけど、なんか妙に嬉しい。 食事をしながら、私はふと、罪悪感めいたものを覚えた。 ——この人を、復讐の道具として利用してる自覚はある。 だったら、せめて。「巧。私、貯金あるから」「……え?」「これから、私があなたを養う」 きっぱりと言い切って、私はテーブルの下から一枚の紙を取り出した。 婚姻届。「一緒にいてくれるなら、ちゃんと責任持つ。だから——」「……8平米の部屋、で……?」「悪い?」 巧は、しばらく黙って私を見つめていた。 ——あ、これは断られるパターンかもしれない。 そう思った矢先。「……くくっ」 小さく、彼が笑った。「な、何よ」「いや……可愛いなと思って」 ——え。今、記憶喪失の人が言う台詞じゃなくない? 動揺する私をよそに、巧はペンを手に取り——けれど、すぐには紙に触れなかった。「サインする前に」「な、何」「前金、欲しいんだけど」「前金って……お金なら——」「お金じゃない」 巧の指先が、そっと私の顎に触れた。「キス、してくれないか」 ——は???? 頭の中で盛大にハレーションが起きる。 え、この人、記憶喪失って設定どこいった?「べ、別にそんなの——」「してくれないなら、サインしない」 にこり、と笑う顔が、やけに自信満々だった。 ——ずるい。この顔、絶対ずるい。 しばらく睨み合ったあと、私は諦めて彼の頬に、ちょん、とキスを落とした。 顔が熱い。心臓がうるさい。 巧は一瞬だけ驚いたような

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